この批判用語がダサい―――アニメ感想で使うとダサい用語集―――

・ダサい批判用語とは

詳しくは別の記事に書きますが、ざっくり言うと

 ・使うことで賢く批判できている気分になれる

 ・しかし、ほとんどの場合それは実際には批判になっていない

というダサい状態を招く言葉です。

 もちろん、適切に使えばどの用語も批判として成立します。しかし、その域に達するのは非常に困難です。筆者も適切に使える気はまったくしません。

 そのため、とりあえず何か批判したくなってもここにある単語を使用するのだけはぐっと堪えて避けましょう、というのがこの「ダサい批判用語集」のあらましです。皆さんもぜひこれをチェックリストとして自分の言動を見なおしてみてください。筆者も自分で自分を絞め殺す覚悟で自省します。

 重ね重ね書きますが、これは自分を省みるためのチェックリストであり、他者を攻撃するための道具ではありません。このリストに載っている言葉を使っていても適格の批判を行っている人もいるし、そもそも批判の意味で使っていない人もたくさんいます。そうした人々の言葉尻を掴んでつっかかっていくのは何よりもダサいのでやめましょう。筆者もその心づもりです。

意味が曖昧なので注意が必要な言葉

ご都合展開/ご都合主義/主人公補正

 ストーリーやプロットに不満があるとき使いたくなってしまう言葉。

 不利な状況の積み上げがカタルシスを得るには足りていない。主人公が嫌いなので主人公に有利なことがおきるのは癪にさわる。その他様々な感情や理由から口をついて出てきてしまいそうになるが、これらの言葉単独では具体性が皆無なので、せめて「どこが都合よく感じたか」「なにがどう補正されているのか」を明記した方が賢明である。

俺TUEEE

 本来はゲームなどで比肩する敵がいない、いわゆる無双の状態を表現する言葉だったらしいが、いつのまにか揶揄するような用法が定着してしまった用語。

 当たり前だが、主人公が無敵でも最強でも面白いものはいくらでもある。そもそも本当に主人公が”最強”なのか怪しい場合も多い。主人公の強さの描写に不満があるなら、もう少し踏み込んで「ピンチへの追い込まれ方がぬるい」「強さの表現がよく伝わらない」くらいは具体的に書いた方がいい。

中身がない

 作者の主義主張がないと言いたいのか。キャラクタが紋切り型で個性がないと言いたいのか。展開に見覚えがあるといいたいのか。自分では「中身」が何を指しているのか分かっていても、他人には何が言いたいのかまったく伝わらない。もっと明確な言語化が必要である。

がばがば/雑/超展開

 とっさに出てくる感想ワードとしてなら許容されるかもしれないが、批判として使うには言葉自体が「雑」である。「がばがば」に至ってはただのオノマトペであり、これ自体になんらかの意味を乗せて伝えるのは不可能に近い。論理展開の不備、シーン同士の不整合を指摘したいときに使われることが多いので、それならどこに問題があるのか細かく指摘する方がよい。

テンポが悪い/センスがない

  外国語の単語はその意味を日本語を用いて明確に定義するのはとても難しいが、一方で漠然となら伝わってしまう性質がある。そのため、気をつけないと不明瞭な定義のまま使用してしまうことが多くなってしまう。

 こうした横文字を乱用した批判は一見するとまともに見えるが、実際にはその意味がはっきりとしないため、批判として成立しない。そのうえ厄介なことに、言葉としての難しさがないだけに定義の不明確さに目が行かず、批判が成立しないことに自分では気づきにくくなる。そのため、こうした横文字は極力避けるべき言葉であり、使う場合はその内容がはっきりするよう特に気を付けることが必要である。

本質

 こうした哲学的な用語は意味の定義が明確にあるように思えるが、実際は非常に曖昧である。そのため、横文字と同じでその内容をはっきりさせない限りは批判として用いるべきではない。

萌えアニメ

 まず「萌え」が非常に多義的なのに、更にアニメをつけることでより何を指したいのか分からなくなっている言葉。それでいて漠然とした嘲笑の感じが漂うため、炎上に繋がりやすい言葉でもある。取り敢えず意味が曖昧なので具体化するべきなのだが、特定の作品名を挙げてもそれはそれで論争の火種になるので単純に使わない方がいい。

虚無 

 虚無とは何か。何かが「ない」という状態を表現する言葉のため、特定の概念よりさらに明確な言語化が難しいとは思うが、しかし言語化しない限りは本当に何も伝わらない。感想として虚無しか言えない場合もあるだろうが、批判をするなら頑張って言語化するべきである。

感情移入(できない)

 この言葉は本来、美学などの分野で芸術鑑賞について評する際に使われている言葉である。こうした専門用語が常用語として転化された言葉は意味が曖昧になってしまっていることが多く、この言葉も日常的に使われる場合は「共感できない」「感情の推移の論理が理解できない」など幅広い意味で使われることが多い。

 こうした幅の広さを踏まえて明確に言語化するべきというのがひとつの解決策なのが、この語を使う問題点は別にもう一つある。言葉の成り立ちを考えると「感情移入」とはそもそも作品を見る側による行為である。つまり、この表現は作品について語っているようで実際には自分語りにしかなっていない。この問題点を理解しないで使うと単に自分の共感性の無さを述べるにすぎないダサい状態となることがあるので、そうした意味でも使わない方が無難な言葉である。

最近の~

 定義が不明瞭なまま使用されることが特に多い単語。「最近の」という表現が指している年代が曖昧な事に加え、「最近」と対比しようとしている年代も同じように曖昧な子とが多いため、二重に混乱を招く。そのためか使うと炎上しやすい単語でもある。

 時代によって「売れる作品」の傾向に変化があること自体は確かに肌で感じられるし、「最近の」という言葉を使ってそうした歴史的な変化を語りたくなる気持ちもよく分かる。しかし、実際にそうした変革について確証まで添えて明示することは大変な労力が必要である。そうした面倒を避けて「最近の」という言葉を使ってもエビデンスもない戯言を重ねるだけであり、批判には到底ならない。

 どうしても「最近」を使いたくなった時はまず「00年代」「ここ2,3年」のように時間を明確に区切り、さらに「いつの時代と比べているのか」を明言したほうがよい。したところで燃える範囲が狭くなるくらいだが。

リアリティ

 「最近」と同じくらいよく使われる単語。

 当たり前だがアニメは全てフィクションであり、現実にあったことを参考にしていても現実そのものではない。そうしたアニメにおいて「リアリティ」とは何を指しているのか。これは非常に深遠な問題であり、一人一人に持論があってもおかしくない。そのため安易に持ち出さず、まずは自分にとっての「リアリティ」とは何かを言語化してから使うべきである。

二番煎じ/パクリ/(オリジナリティがない)/テンプレ

  作品の数を見れば見るほどストーリーに既視感を覚えることは避けられない必然である。しかし、あなたの既視感はあなたの中にしかない。「どこが」「どう」「何に」似ているのか。それらを明確にしないと他者には既視感についてなにも伝わらず、批判にはならない。

 更に別の問題点として、そもそも本当に「パクり」なのかという疑問がある。ある作品とある作品が似ているからといって、一方が一方の模倣品であると断定するのはあまりにも短絡的である。どちらも同じ作品を模倣している可能性もあれば、偶然に一致した可能性もある。ジャンルとしてのお約束をパクりとみなしていることも十分にありえる。そういったことを想定せず「有名作品と似ているからパクり」と言ってしまうのは早計であり、本当にダサい。

 他にもパロディやオマージュ、インスパイア、リスペクトのように似てることに意味があることを指摘してしまうケースなど、ダサくなる可能性は様々にある。それらを全て留意して使うのは難しいのでなるべくなら使わない方がいい。

棒読み

 この言葉も本来の用法から外れた結果意味が曖昧になっている言葉である(詳しくはこの記事を参照http://dic.nicovideo.jp/a/棒読み)。なので「声に感情が伴ってない」「イントネーションがおかしい」「発音が甘く聞き取りにくい」のように明確に問題点を指摘するべきであるが、それに加えその読み方が制作者の演出なのか役者の技量不足なのかを判断する必要もある。つまりこの語を適切に扱うには「演技とは何か」についてまで考えを馳せることが必要であり、まかり間違っても「声にアニメキャラっぽさがない」というだけで使うべき表現ではない。そのためよっぽど作品や演技への理解が無い限りは使わない方が無難である。

前提とする考え方に問題がある言葉

大人の視聴に耐える/子供向け

 よくやってしまう、言ってしまう言葉。誉めるときに使える表現と結びついているところがたちが悪い。

 「子供が視聴するものは単純な勧善懲悪の分かりやすい表層的な物語であり、大人が視聴するものは複雑で重厚な物語である。」「子供には複雑な内容が理解できない。」この言葉の前提となるこうした考え方は些細な例を上げるまでもなく容易に否定されるものである。しかしながら、様々なところで見かける考えたでもあるため、知らず知らずのうちに陥ってしまうことも十分あり得える言葉である。咄嗟に言ってしまわないよう注意がいる。

リソース不足/低予算

 予算と品質についての無垢な考え方が透けて見える発言。「いいものを作るにはお金が必要」という考え方はとても素晴らしいので無くさないでほしいが、現実はもっと複雑な因果を持っている。「いいものだからお金がかかってる」ことは必ずしもないし、「質が低いからお金がかかってない」ということも必然ではない。むしろアニメーターの薄給といった問題はクオリティとお金のかかり方が相関していないことにこそある。結局、お金のことは実際に作っている人たちにしか分からないことであり、視聴者がそうした忖度をすることは意味がない。クオリティへの不満はとくに理由づけをせずクオリティの低さとして指摘するべきである。

作者の自己満

 どれだけ作品を読み込んだとしても、後書きで明記されているか読み手がエスパーでもない限り作者がその作品に満足しているかは分かるはずがない。 ひとつだけ確実なのは「自分が満足しているかいないか」なので、作者ではなく自分の満足を語るべきである。 

誰得 

 「その作品を誰に向けて作っているのか」というのはテーマ性とも結びつく重要な点かもしれないが、そこから「それによって得をしているか」を考えるべきは視聴者ではなく製作者である。自分が出資しているなら場合はともかく、あくまで他人でしかない製作者が「得にならない行為」をしているからと言ってそこに怒りを覚えるのは無意味である。

 そもそも、自分にとって得にならないからといって万人に得にならないとみなすのは軽率である。どんな作品でも少なからずファンがおりその人たちにとっては得でしかない。自分にとっての事実でも、安易に他者へ広げず自分のこととして述べるべきである。

現実逃避のための作品

 まず、現実逃避という単語がいまいちはっきりしない。

 とりあえずWikipediaの記述(https://ja.wikipedia.org/wiki/現実逃避)を参考にすると「現実に直面した事態に向き合わずに逃げること」とある。つまり現実から目を背けられるなら何でも「現実逃避のための」道具として機能し、そこに作品の内容がどう関わるかは視聴者の精神の在り様によって変わるということである。自分がその作品で現実から逃避しているということを言いたいのならまだしも、不特定多数が作品を使って現実から逃避していると判定することは調査なしでは決してできない。ましてや作品の性質を道具のように判定することなど不可能であり、ともすれば視聴者の人格へ踏み入った発言となってしまうのである。

 どうしてもこの言葉が使いたい場合は「作品内のこの要素を見ているときに自分は現実を忘れられる」と述べるくらいにした方がよい。*1

n話切り余裕(nは任意の0以上の整数)

 この表現は作品の内容を語っているように見えるが、実際には自分の行動を宣言しているだけである。ものを食べたときに「うんちいっぱい出た」と言っているようなものであり、味については何も語ってない。このままでは批判でもなんでもないので、せめて視聴を断念した理由でも書き添えてしかるべきである。

言葉自体が野卑なので使わない方がいい言葉

見る目がない/ほめるやつは馬鹿

 作品について語っていない+人格否定というダサい要素のダブルパンチ。「民度が低い」と比べると意味の不明瞭な言葉がないのでダサい要素は少ないが、意味が明確な分攻撃性が強く炎上を招きやすい。

 自分と解離した評価を下す周囲の人間に憤ってしまうことは誰にでもあり得る。しかし、それをこのように言葉に露にしても視聴者の人格否定以外にはなにも語られていない。批判をしたいならまずは作品と向き合うべきである。

でんでん現象

 伝説の勇者の伝説という作品に端を発して生まれた言葉。発生経緯はこちら(http://dic.nicovideo.jp/a/でんでん現象)を参照してほしいが、要するに「これを面白いと言ってるのは信者だけで普通のやつは面白いとか言わない」という内容の批判用語である。「自分は信者と違って冷静にものが見えている」というマウントも同時に取れるとても便利な言葉であるため、覚えるとつい使いたくなってしまう。

 少し考えれば分かることだが、あるアニメを最後まで見るのは基本的にそのアニメに好意的な感情を抱いている人間である。面白くないと思った人間は途中で去っていくものであり、最後まで見て貶そうという人間はそう多くない。つまり、この「でんでん現象」というのはどのアニメでも必然的に起こる現象なのである。

 特定の作品を批判するためにこの用語を使うには、よほどしっかりしたデータを持って「視聴者が尖鋭化している」ことを示さなければならない。しかし、普通に考えてそんなことは無理である。*2畢竟、この言葉を使うとどうしても「気に入らない作品をファンの肯定的な感想ごと叩く」という形になってしまうので、使わないのが得策である。

ファンの民度が低い

 そもそも作品について語っていない上に、明確に人格批判。さらに「民度」という言葉が定義の明瞭でない。ダサい批判にありがちな要素がすべて盛り込まれている、まさにキングオブダサい批判である。ここまで完璧だと逆に凄さを感じなくもないが、普通にダサいので使わない方がいい。   

 

グラスった

 止め絵が出たときに使われることのある表現。

 まず前提にある「止め絵を使うことが悪いこと」で「動いていれば動いているだけいい」という考え方がそもそも議論の余地がある。グラスリップというアニメで止め絵を使う演出が多用されていたことからこの表現が生まれているのだが、そのグラスリップにおける止め絵は「ハーモニー演出」というコンテの段階で指定されている演出である。演出として既に名前があるものにわざわざ作品の名前をつけた上に揶揄の表現として使うのはあまりにもダサい。

万策尽きた

 アニメ「SHIROBAKO」に由来する単語。このアニメのせいで総集編=制作現場が窮した末の苦肉の策という図式がほとんど常識扱いされてしまい、この言葉が総集編が放送されるごとに蔓延るようになってしまった。最近では作画への不満を評するときに「低予算」などの代わりに使われることもあったりもする。

 予算についての話と同じで、製作スケジュールの状況について視聴者が作品だけを見て忖度することには何の意味もない。スケジュールの遅れを見越して最初から計画していた休息の可能性もあれば、ストーリー構成の結果13話分に足りないところを埋めるために入れらえた可能性もある。*3たかだか1作品での、しかもフィクションの中での描かれ方を鵜呑みにしてアニメすべてに当てはめて喋るのはダサすぎる。場合によっては書いた本人だけでなくSHIROBAKOにまでヘイトを集める可能性がある*4ので、SHIROBAKOが好きならなおさら軽率には使わない方がいい言葉である。

原作レイプ

 原作があるアニメで使われることがある単語。原作への愛があるほどふがいないアニメ化には怒りを覚えるかもしれないが、原作を知らないでアニメだけ見て楽しんでいる人にとってはこの言葉だけでは全く通じない。とりあえず冷静に「原作からどこが改悪されているか」を述べた方がいい。”レイプ”という単語自体がSNSで不適切発言とみなされる可能性もあるので、その点も注意が必要。

 

*1:そもそも逃避自体がネガティブなことであるという考え方もこの言葉からは透けてくるのだが、それは現在の社会・教育にまで踏み込んで考える必要のある問題なのでここでは割愛する

*2:まず、元となっている伝説の勇者の伝説自体がそうしたデータに基づいて批判されているか怪しい

*3:個人的には毎話アバンでの振り返りに加え1クール半ばくらいで総集編があった方が途中から見始めた人でも楽しめるしいいと思う

*4:筆者はこのミームを生み出した点において明確にSHIROBAKOに怒りを持っている